フリートに願いを
この記事は
徒然 Advent Calendar 2020 - Adventar
の記念すべき1日目の記事です。
べるでない、というよりもむしろ、べるである。
皆さんは日々、「願い」を持って生きているでしょうか?
「願い」っていうのは、たとえば
好きな人と一緒になれますように、とか
何者にも負けない力が手に入りますように、とか
固まりきってない自分の願望ですね
一年のうちで七夕くらいしか「願い」について考えることのない現代では、ついついそういう「願い」のかけらを日々の中で忘却しがちです。
今日は、こんなふわっとした「願い」について、つい3週間ほど前に導入されたフリートを例に考えてみましょう。一応誰にでもわかるように書くつもりです。
フリートのもつ「願い」
@TwitterJPの記事から、フリートの持つ「願い」を読み取ってみましょう。
Twitterは、オープンな会話の場を提供することを目的としています。いま世の中で起きていること、いま人々が語り合っていること、それこそがTwitterです。一方で、ツイートはあまりにオープンなうえ消されることなく残り続けるものであるため、勢いに任せて投稿することを躊躇してしまったり、「リツート」や「いいね」をたくさん得ようというプレッシャーを感じるという声も寄せられています。その結果、残念ながら多くのツイートが下書きのままなのです🔥そこで、私たちは皆さんがその時のできごとや気持ちをもっとリラックスして共有できる方法を模索してきました。そして本日、新機能「フリート」を日本で公開します。そのとき伝えたい思いやできごとを、その熱量のままに伝える新しい形の会話を楽しむことができるようになります。
この文章、背景、目的と提案方法が一本につながっていてとてもきれいな気がします。(論文脳)
まあ、リツートになってるとことか、気になるけど。
さて、僕なりに解釈すると、フリートの持つ願いは次のようになります。
「twitterを利用する人たちに、その時のできごとや気持ちを、もっとリラックスして共有できるようになってほしい」
フリートに対するユーザーの反応
ユーザーは一般に作り手の気持ちまで考えません。変化を忌み嫌い、なんでこんな改悪をしたんだ!と反発するのが十八番です。
まあ、僕もそんなものです。
しかし、このフリートに関しては、周りに見られた反応と少々違う気持ちを僕が感じたので、そのあたりを表現できればな、と思います。要は僕はフリート肯定派です。
周りに見られた否定的な反応
- フリートいらない、インスタでいい
- 足跡機能いらない
- 反応がDMに来るのが謎
- タイムラインの貴重な高さを消費しないでほしい
まあ、どうでもいいんですけど。
ユーザーに気軽に発信してほしい→フリートを導入する
という流れは極めて自然なものだと思います。以下はその理由です。
インスタと同じらしいですが、反応を周りに可視化せずDMに送る、というのも最初に引用した文章に有る
「リツート」や「いいね」をたくさん得ようというプレッシャーを感じる
という部分にアプローチしたものだと思われます。少なくとも筋は通ってます。
そして、足跡機能。僕自身はインスタをあまりやってないせいでとても新鮮でした。むしろ今までフォロワーの人数に対して、24時間で60人くらいしか見てないんだな、ということが可視化されて面白いなと思いました。
ここで、穿った読み方をすれば秒で矛盾してるかもしれませんが、要は
足跡機能という新たなパラメータを使ってフリートという新たな機能に対する反応を可視化している
という点で、自然なサービスの発達の手順を踏んでいると思います。今までの反応( : いいね!とRT)がプレッシャーになっているというのが問題意識なので、それによって溜まってしまった下書きを放出する方法としてフリートを導入したとしても、反応がいいね!とRTだったら意味がないわけです。この限りにおいて、極めて自然な機能だと思います。
UIについては改善の余地が有ると思います。がしかし、下に置くと誤タップの危険があり、幅を削るのは論外なので、暫定解として普通なんじゃないかなと思います。今後、非表示にする機能・もしくは展開・折りたたみされる機能みたいなのはつけてもいいかもしれませんね。
まとめると、これらの機能は当初の「願い」である
「twitterを利用する人たちに、その時のできごとや気持ちを、もっとリラックスして共有できるようになってほしい」
を、邪魔しないようなパラメータ、機能でしっかりと構成されていると解釈できるということです。
ユーザーからみればインスタのパクリ機能にしか見えなかったとしても、ね。
まあ、嫌なら使わなければいい話です。でも実際フリートのほうがみんな面白いことを発信しているような気がします。一度使ってみてはいかがでしょうか。
「願い」を持たないクリエイター、「願い」を受け取れないユーザー
こっから本題で、徒然していきたいと思います。
研究と創作について、すこしかじっただけの僕ですが、世の中にモノがあふれるようになり、なんというか「願い」が分からないなと思う作品が増えたように思います。僕のアンテナが弱いからかもしれませんが。
創作物については、「想い」と言ったほうが適切かもしれません。
かならずしも AがBしてほしい とはならないので。
後輩が言ってたのですが、良い作品というのは
「浅く見ても楽しめるし、深く解釈しようとしたらそこにちゃんとメッセージが有るもの」
だそうです。僕も同じ意見です。
そもそも、僕も今まで「願い」を持たないクリエイターであり、かつ「願い」を受け取れないユーザーでした。どういうことかというと、
なんとなく面白いな、この技術使ってみたいな、と思って作り始めて
自分が満足できる形になればそれでいい
みたいな場当たり的な生産でした。それを見た人にどう感じてほしいか、とか暑苦しいな、厚かましいな、と思ってました。
でも、最近頭を使い続けて、手を動かし続けてやっと、そうではないものに気付けるようになり始めたのです。そして、ユーザーが受け取れるかは別として、「願い」はちゃんと込めていかないといけないことにも気づきました。
関数に例えるなら
入力:「願い」
処理:テクノロジ
出力:コンテンツ+メディア
という感じです。入力がないと、いくらテクノロジが強くても膨らまないんですよね。
だから、「願い」が大事なんです。
ちなみに、その後いくら膨らましても、出力の見せ方が良くないと伝わらない。
この見せ方の部分のことを、デザイン、とか表現(representation)って言うんだと思います。
多分フリートは、「願い」と手法は良かったのですが、見せ方がユーザーに馴染んでないので先のような反応が出てきたのだと思います。解釈しようと思えば筋は通ってるので、あとはユーザーの反応を見ながら改善していくんじゃないかな、と思います。
かく言う僕も、今でも気をつけてないとなんとなくモノづくりをしてしまいます。
気をつけたいですね。