velengel++

徒然なるままに.

Drastic Calendar 10

第十章:売らないことに、意味はある?

みすの夏合宿では、ゆるめの企画発表会がある。大抵の企画はあまり進捗が出ていないのだが、僕はこういう場でゆるふわに大きめの報告をするのが大好きなのだ。

そこで一つ、小さな計算外の出来事が起こった。みすカレンダーの需要が、思ったより高くなってしまったのだ。これ自体は嬉しい誤算だが、一方でこういうことを言う人も増えた。
「有料で頒布しないの?」と。
はっきり言って、これがみすカレンダーにおける最大のストレッサーだった。そういうのはコミケなどの任意の同人誌即売会でやるべきで、早稲田祭でやるべきではない。そもそもこの企画はそこを目指しているわけではなかった。
会計としての立場から見てもこれは反対だった。早稲田祭は無料頒布のものにかかる経費に限り補助金が出る。一つでも、有料企画ができた時点でその辺のレギュレーションが怪しくなる危険性をはらんでいるからだ。
そもそも(2回目)、みすは初心者のデジタル創作に対するハードルを下げるのを目的とした活動が多いので、その面でも合っていない気がする。 一方で、多少お金を取ったほうが大切にしてくれる人の元に届く確率が高まる、という意見もあるらしい。が、僕からしたら、それは分かるが、だから何だという話だ。この企画は最終的には最高のカレンダーが作れればいいのであって、それ以上の面倒ごとは何も求めていない。

企画長としても、会計としても。

もちろん、この発言は他意はなく純粋に価値を認めてからのものが多いとは思う。二年目以降そのようなところを目標にしていくのもいいだろう。ただ今年は一年目であり、僕は引退である。そして概して、目的を高く(もしくは多く)持ちすぎると、その企画はモチベのぶれたものになりやすい。そして企画員が離れていき、結局企画長が何とかしたりするのである。まあ、そうやって集まったガチな仲間と創作する経験もまた楽しいし貴重なものではあるが、少なくともこの企画の趣旨からは外れる。
企画の可能性の広がり自体は大切である。えてしてそれが魅力的に見える理由になったりもする。しかし、最も伝達したいことは一意に定まるべきなのだ。今回の場合、それは「最高のカレンダーを作る」ことである。それが僕の元に届けばこの企画は成功なのだ。有料化して頒布するとか、新入生の蒸発を防ぐとか、デザインができる人を増やすとか、CG研同士の合作の機会を増やすとか、そういうのは全てサブ目的なのである。 部数が200に絞られて、そこまでサークル員に行き渡らなかったのは若干申し訳ないが、企画員の分はちゃんと確保したし、そのために画像ダウンロード用の特設webサイトも作ってもらった。早稲田祭直前の一ヶ月はそこにほぼ全振りしていたような気もする。

売らないことに、意味があるのだ。